【無責任の極み】あなたの周りの「主語がでかい人」、なぜそんなに嫌われるのか?

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【この記事はこんな方に向けて書いています】

  • 「みんな言ってる」「普通はこう」という言葉に、ウンザリしている方
  • 主語の大きな意見に、いつも反論できず黙り込んでしまう方
  • なぜ人は、自分の意見なのに「みんな」を盾にするのか不思議な方
  • 議論の場で、個人の意見として堂々と発言できるようになりたい方

「みんなやってるよ」「普通はこう考えるでしょ」「常識的にありえない」。この手の言葉を聞くたびに、心の奥がザワっとしませんか。まるでそれが世界の総意であるかのように語られるけれど、よくよく考えれば、その「みんな」って一体誰なんだ、と。

会議で、友人との会話で、さも当たり前のように繰り出される大きな主語。それは、一見すると説得力があるように聞こえるかもしれません。しかし、その実態は、自分の意見に対する責任から逃れるための、非常にずる賢い言葉のトリックです。なぜ彼らは主語を大きくしてしまうのか。その背景にある、自信のなさと無責任さ。今回は、この厄介な「主語がでかい人」の心理を徹底的に解剖し、彼らにペースを乱されないための思考法を、厳しめにお伝えしていきます。

なぜ「私」ではなく「みんな」なのか

彼らがなぜ「私はこう思う」と言わずに、「みんなはこうだ」と主語をすり替えるのか。その最大の理由は、驚くほど単純です。「自分の意見に責任を持ちたくない」からです。

「私」を主語にして意見を述べれば、当然、反論や批判の矢面に立つのは自分自身です。そのリスクを負うのが怖い。だから、「みんな」や「普通」といった、顔の見えない巨大な何かを盾にして、自分は安全地帯から石を投げる。もし意見が否定されても、「いや、私が言ってるんじゃなくて、みんなが言ってることだから」と、いつでも逃げられる保険をかけているのです。

これは心理学でいう「フォールス・コンセンサス効果(偽の合意効果)」とも関連があります。これは、自分の意見や考え方が、実際よりも多数派であると思い込んでしまう認知の偏りのこと。彼らは「自分がこう思うのだから、きっと周りも同じはずだ」という根拠のない思い込みを、「みんな」という言葉で正当化しているに過ぎないのです。

その言葉が議論を殺す

主語の大きい言葉がもたらす害悪は、単に「無責任でズルい」というだけではありません。もっとも深刻なのは、それが健全な議論の芽を完全に摘み取ってしまうことです。

「普通はAでしょ」と言われた瞬間、BやCという選択肢を考えていた人は、口をつぐんでしまいます。「自分は普通じゃないのかも」という同調圧力を感じてしまうからです。こうして、多様な意見や少数派の貴重な視点は、いとも簡単に圧殺されます。結果として残るのは、何の深みもない、当たり障りのない結論だけ。これは、組織にとって計り知れない損失です。

ある調査によれば、会議で発言しない理由として「反対意見を言うと人間関係が悪化しそうだから」と答える人が少なくありません。主語の大きい発言は、まさにこの「言いにくい雰囲気」を助長する、最悪のコミュニケーションなのです。

「主語のでかい人」への処方箋

では、こうした人たちにどう立ち向かえばいいのでしょうか。感情的に「あなたの感想ですよね?」と切り返すのも一つの手ですが、もう少しスマートな方法があります。

それは、笑顔で、そして冷静に「主語」を個人に引き戻してあげることです。 「なるほど、『みんな』がそう言っているんですね。ちなみに、具体的にはどなたか、そうおっしゃっていた方のお名前を教えていただけますか?」 「『普通』というのは、どういった範囲での普通を指していますか?」

こう問いかけるのです。意地悪く聞こえるかもしれませんが、これは議論を前に進めるための極めて論理的な質問です。彼らは多くの場合、具体的な名前や根拠を挙げられません。そこで初めて、その言葉が何の裏付けもない、個人の感想に過ぎなかったことが露呈します。大切なのは、相手の土俵に乗らず、常に「事実」と「個人の意見」を切り分ける冷静さを持つことです。そして何より、自分自身が発言するときは、勇気を持って「私は」を主語にすること。その小さな勇気が、無責任な空気を打ち破る第一歩になるのですから。

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