
【この記事はこんな方に向けて書いています】
- 新人研修で、分厚いテキストと退屈なPowerPointのスライドを、ただ読み上げるだけの時間を「教育」だと勘違いしている研修担当者の方
- 研修で教えたはずのコマンドを、現場で全く使えず、簡単なトラブルにもフリーズしてしまう新人の姿に、頭を抱えているOJT担当の先輩エンジニア
- 「研修でやったことと、現場の仕事が違いすぎる」と感じ、このままでは成長できないと、深刻な不安と焦りを抱いている、志の高い新人エンジニア
- コマンドの暗記マシーンではなく、自らの頭で考え、問題を解決できる、本物のネットワークエンジニアを一人でも多く育てたいと願う、全ての人
あなたの会社では、今年も「新規採用ルーター研修」の季節がやってきましたね。会議室に集められた、緊張と希望に満ちた新人たち。そして、プロジェクターに映し出される、見慣れた「OSI参照モデル」のスライド。続くのは、サブネットマスクの計算、ルーティングプロトコルの概要、そして、膨大なコマンドリスト…。
はっきりと言いましょう。その研修は、百害あって一利なし。それは教育などという高尚なものではなく、新人の貴重な時間を浪費し、彼らの学習意欲を根こそぎ奪い去り、そして、現場では全く役に立たない「コマンド暗記マシーン」を量産しているだけの、自己満足の儀式にすぎません。
なぜ、断言できるのか。それは、あなたがたがやっている研修が、ネットワークエンジニアという仕事の本質を、根本的に、そして致命的に、誤解しているからです。この記事では、あなたの会社の研修を蝕む「4つの大罪」を白日の下に晒し、コマンドを覚えるだけの“お勉強”から、生きた問題解決能力を叩き込む“地獄の特訓”へと、研修を劇的に変革させるための、具体的で、一切の妥協なき方法論を提示します。
大罪その1:「パワポ地獄」。実機に触らせず、理論だけを垂れ流す愚行
研修の初日。あなたは、新人たちに何を見せますか?まさか、一日中、PowerPointのスライドを見せ続ける、なんていう拷問を強いてはいませんよね。OSI参照モデルの7階層を、一つひとつ、丁寧に、退屈な言葉で説明する。その時間の、なんと無駄で、なんと残酷なことか。
ドイツの心理学者、ヘルマン・エビングハウスが提唱した「忘却曲線」によれば、人間は、学習した内容を、わずか1時間後には56%、1日後には74%も忘れてしまいます。あなたのその、魂のこもっていない講義の内容など、研修が終わる頃には、新人の頭から、ほぼ完全に消え去っているのです。
本物の研修は、スライドを燃やすことから始まります。研修初日の、最初の1時間で、新人がやるべきこと。それは、実機(あるいは仮想ルーター)のコンソールケーブルを、自分のPCに接続することです。
最初に教えるべきは、OSI参照モデルではありません。「enable
」と打ち込み、特権モードに入ること。ホスト名を設定し、「write memory
」で設定を保存すること。この、身体的な成功体験こそが、全ての土台となります。
理論は、後からでいい。いや、後からでなければならないのです。「デフォルトルートって、何のために必要なんですか?」と新人が聞いてきたら、チャンスです。「じゃあ、まず、デフォルトルートを設定せずに、GoogleのDNSサーバー(8.8.8.8)にpingを打ってみようか。何て表示される?…なるほど、『destination host unreachable』か。じゃあ、今度は…」
理論とは、目の前で起きた事象を「説明」するために学ぶものです。事象なき理論の丸暗記は、ただの苦行です。彼らに、生きたネットワークの挙動を、五感で感じさせてください。
大罪その2:「コマンド暗記大会」。思考なきCLIロボットの大量生産
あなたの研修のゴールは、何ですか?新人たちが「show ip interface brief
」や「show running-config
」といった、基本的なコマンドを、よどみなく打ち込めるようになることですか?
もしそうなら、おめでとうございます。あなたは、Pythonスクリプトでもできる仕事を、わざわざ高い給料を払って人間にやらせる、「人間スクリプト」の育成に成功しました。
コマンドを知っていることと、ネットワークの問題を解決できることの間には、マリアナ海溝よりも深く、暗い溝が存在します。
三流の研修は、コマンドの「打ち方」を教えます。 二流の研修は、コマンド出力の「見方」を教えます。 そして、一流の研修は、コマンドを「疑う」方法を教えます。
コマンドを打つのは、作業ではありません。それは、「仮説の検証」です。本物の研修は、全てが問題解決のシナリオベースで進行します。
「シナリオ1:PC-Aから、同じVLANにいるはずのPC-Bにpingが飛ばない。制限時間は15分。始め」
この瞬間、新人は、初めて自らの頭で考え始めます。物理層の問題か?IPアドレスの設定ミスか?スイッチのポート設定か?彼らは、マニュアルに書いてあるから「show
」コマンドを打つのではありません。目の前の謎を解くための「手がかり」を探すために、必死でコマンドを打ち、その出力結果を睨みつけるのです。
そして、研修担当者であるあなたの仕事は、答えを教えることでは、断じてありません。あなたの仕事は、ソクラテスになることです。「なぜ、そのコマンドを打とうと思ったの?」「その出力結果の、どの部分が、君の仮説を裏付けている?あるいは、否定している?」「なるほど。じゃあ、次に検証すべき仮説は何?」
この、粘り強い問いかけだけが、コマンドの暗記マシーンを、思考するエンジニアへと、変態させることができるのです。
大罪その3:「無菌室での演習」。現実の“汚さ”から目を背けさせる欺瞞
研修で使うラボ環境。ケーブルは完璧に配線され、コンフィグは初期化され、全てがマニュアル通りに、美しく動作する。この、クリーンで、快適で、現実には決して存在しない「無菌室」が、新人をダメにする元凶です。
現実のネットワークは、カオスです。前任者が残した、意味不明のスタティックルート。誰も存在を把握していない、謎のACL。ドキュメントとは似ても似つかない、現場でのパッチワーク的な設定変更。そして、時々、物理的に接触不良を起こす、老朽化したケーブル。
無菌室で育ったエンジニアは、初めて本番環境の障害に直面した時、その「汚さ」と「理不尽さ」の前に、パニックに陥り、思考を停止します。
ならば、どうすべきか。答えは一つです。研修ラボを、「地獄の無法地帯」に変えるのです。
研修担当者は、新人たちに気づかれないように、意図的に「罠」を仕掛けます。こっそりとケーブルの片方を抜き、VLANの設定を一台だけ変え、配布したIPアドレスリストに、わざと重複したアドレスを混ぜておく。我々は、この特訓を、敬意を込めて「カオスモンキー・エンジニアリング」と呼んでいます。
研修は、ネットワークを「構築する」演習ではなく、ネットワークを「修理する」探偵ごっこへと変わります。「昨日まで動いていたはずの、このネットワークが、なぜか今朝から通信できない。犯人(原因)を見つけ出せ」。この経験こそが、障害対応で最も重要な、冷静な切り分け能力と、精神的なタフさを育むのです。Gartnerの調査によれば、クリティカルなシステムのダウンタイムは、1分あたり5,600ドル以上の損失を生むとされています。この莫大な損失を防ぐための投資として、研修で地獄を見せることほど、費用対効果の高いものはありません。
大罪その4:「孤独なヒーロー」の育成。チームとワークフローの完全な無視
多くの研修は、新人一人ひとりに、個別の課題を与えて終わります。しかし、ネットワークエンジニアの仕事は、決して一人で完結するものではありません。
- 設定を変更する前には、変更管理システムに、その内容と影響範囲を申請しなければならない。
- 変更作業の後には、ネットワーク構成図を更新し、設定ファイルをGitで管理しなければならない。
- 障害が発生した際には、サーバーチームやアプリケーションチームと、正確な情報を共有し、連携しなければならない。
- そして、インシデントが収束した後には、顧客や上司に、その原因と対策を、専門用語を使わずに説明できなければならない。
あなたの研修は、この「ワークフロー」の全てを、教えていますか?もし、コンソール画面での作業しか教えていないのであれば、あなたは、チームの中で機能不全に陥る、コミュニケーション能力ゼロの「孤独なヒーロー」を育てているにすぎません。
ペアプログラミングならぬ、「ペアオペレーション」を導入してください。二人一組で、一人がキーボードを打ち、もう一人が、その意図を説明し、記録を取る。作業の最後には、必ず、模擬の「障害報告書」や「変更手順書」を作成させる。この訓練が、技術力と同じくらい重要な、ドキュメンテーション能力と、チームで働くための作法を、彼らの血肉とするのです。
あなたの研修のゴールは、ルーターのコマンドを覚えた人間を育てることではありません。あなたの真のゴールは、ネットワークエンジニアとしての「思考様式」と「行動様式」を、新人にインストールすることなのです。その思考様式とは、「何事も疑ってかかれ(Trust, but verify)」という健全な猜疑心であり、その行動様式とは、「常に記録し、常に共有せよ」というプロフェッショナルとしての規律です。
この地獄のような特訓を乗り越えた時、新人は、もはやあなたの手助けを必要としない、自律した一人のエンジニアとして、自信に満ちた顔で、現場へと羽ばたいていくでしょう。
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